続:ロッキード裁判を振り返る(その31)『渡部昇一の主張の特徴について』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、渡部昇一の主張の特徴を取り上げます。
これについては、今までも折に触れ述べてきましたが、ここまで渡部・立花論争を見てきた総括として、改めて振り返りたいと思います。
この裁判批判における渡部昇一について、立花隆はこう書いています。
渡部氏が「暗黒裁判論」以下の一連の裁判批判論においてやったことは、田中有罪を示唆する一切の証拠に見向きもせず、田中無罪を示唆する証拠がちょっとでもあればそれに飛びついてならべるという作業である。それによって、田中有罪を示唆する証拠をゼロにし、田中は無罪にちがいないと考えるわけである。そしてこれをもって「無罪の推定」だと称し、田中有罪を示唆する証拠に目を向けたり、あるいはその方向で証拠を解釈するのは「有罪の推定」だとして非難するのである。全くバカバカしいかぎりである。そんなことでよいなら、どんな犯罪でも無罪にできるだろう。(『幕間ピエロ』第60回)
簡潔明瞭かつ的確に渡部昇一を捉えた認識だと思います。
また、立花隆は「もともと人権派として活動してきた人ならまだしも、渡部昇一氏や秦野氏のごとく、これまで人権派とは無縁どころか対極の位置にいた人まで、人権、人権と声高に叫び出すのだからおそれいる」と書いています。(『幕間ピエロ』第20回)
確かに、渡部昇一や秦野章に人権派というイメージは皆無でしたから、そんな彼らが田中角栄についてだけ「人権」を唱えるのは、典型的な御都合主義でしょう。
それと、私がずっと疑問だったのは、渡部昇一が嘱託尋問調書の採用を批判する時に、必ずといっていいほど「憲法37条第2項違反だ」と訴えていることです。
もともと、渡部昇一は憲法無効論者だったはずです。
「憲法改正では、憲法に正当性を与えることになるから、改正なんかすべきではない。一度無効宣言してから変えるべき」という考えの持ち主の渡部昇一が、憲法37条第2項を守れと主張するのも、ずいぶん御都合主義だと思います。
その他で、渡部昇一について印象に残っているのは次のような点です。
・立花の主張を極端な論理の飛躍を積み重ねることによって歪曲する。
・立花に対し「検察側の代弁をしているだけだ」と言いながら、自身の主張は、裁判批判派の法曹関係者の意見を引用紹介したものが多く、それ以外の本人固有の主張には、意味不明なものが多々ある。
・立花から反論があろうと、それを無視して同じことを繰り返す。
特に、最後の「同じことを繰り返す」については、前にも紹介したように、両者の一連の論争が終わってから8年ほど後に出された「『田中角栄の死』に救われた最高裁」(『諸君!』1994年2月号)や、約27年後に出された「立花隆氏よ 議論の土俵に出てこい」(『致知』2012年2月号)で、論争中に立花隆から受けた反論には一切触れず、当初と同じ主張を繰り返しているのを見た時は、不気味ささえ感じ、背筋が寒くなりました。
他にも色々ありますが、キリがないのでこれくらいにしておきます。
この連載を通して、渡部・立花論争が(噛み合っていない点もあったにせよ)どちらに優勢な形で終わったか明らかにできたと思います。
次回は、この連載のきっかけとなった「れんだいこ」氏自身の考えについて取り上げます。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。