別館第一倉庫

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続:ロッキード裁判を振り返る(その32)『「れんだいこ」氏の考えについて』

 「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。

 今回は、この連載のきっかけとなった「れんだいこ」氏の主張について取り上げます。

  <諸氏百家の角栄評考その7、反立花論客(渡部昇一、石島泰、井上正冶)考>
 
 私が最初に、「れんだいこ」氏のこのサイトを見たときの印象は、「続:ロッキード裁判を振り返る(その1)『まだこんなのがありました』」に書いたように、「これは、ちょっと…」というものでした。書いてある中身が凄すぎるとか、その前に取り上げていた「岸田コラム」が随分まともに思えるとも書きました。

 そうした「れんだいこ」氏の主張の奇妙に思える点を取り上げていきます。

 なお、上の「れんだいこ」氏のHPは、御本人が続けている「カンテラ時評」(以下「時評」)のうち、ロッキード裁判について取り上げたNo.927、No.961、No.962、No.963、No.964、No.965、No.966、No.967の8つをひとつにまとめたものなので、これ以降、同HPの「れんだいこ」氏の発言が載っている場所は、この8つの番号を使って示したいと思います。
 
 まず、「れんだいこ」氏のHPを読んで感じるのは、立花隆の文章を読んでいないのではないかという疑問です。
 渡部・立花論争における両者の主張は、そのほとんどが1980年代半ばに発行された雑誌等で発表されたものです。
 したがって、2011年にこれらの時評を書いておられる「れんだいこ」氏は、当然、両者の主張に目を通した上で、御自分の主張を展開しているはずですが、どうも、立花隆の書いた物は読まずに、渡部昇一の主張だけを見て書いているとしか思えません。
 以下、その例として、「れんだいこ」氏の発言を幾つか取り上げ、コメントしていきます。

 1983(昭和58)年、10.12、東京地裁ロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。元首相を裁く判決文にしても随分失礼な暴挙と思われるが、特段に問題にされていない。[時評No.962]

 第一審判決文の主文要旨の問題については、立花隆朝日ジャーナルの連載『幕間ピエロ』第5回他で取り上げ批判していますが、その批判内容には一切触れられていません。

 渡部氏は、田中被告側が1982.2.10日付けで反対尋問請求を正式に東京地裁に提出していたこと、それが同年5.27付で請求却下されているとして、立花式の「田中被告側が反対尋問により薮蛇になることを恐れてビビッた」なる論がデマであると批判している。[時評No.963]

 田中側の反対尋問請求が却下された点については、立花隆が『幕間ピエロ』第55回以降で、田中側の裁判引きのばし工作と合わせて詳しく説明しているが、それらへの反論はなく、渡部昇一の主張をなぞっているだけです。

「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」以来、渡部氏の法律的知識が格段に進んだのであろう、「証拠能力(許容性)」と「証拠の証明力(信用性)」の違いに触れた後、ロッキード事件における免責証言の証拠採用につき次のように批判している。(以下略)[時評No.965]

 渡部昇一が『異議あり』で「証拠能力と証拠の証明力の区別を『諸君!』1984年8月号で始めて知った」と述べことに対し、立花隆は、『幕間ピエロ』第43回で、それまで証拠能力と証明力の区別を知らずに論争に参加していた渡部昇一を批判していますが、ここでも「れんだいこ」氏は、その立花隆の批判に一切触れることなく「渡部氏の法律的知識が格段に進んだ」と前向きに捉えています。

 渡部氏は、検察論告の5億円ストーリーにも疑問を投げかけている。5億円の札束をダンボールに詰めた人も見た人も一人として証言者がいないことに対して、「罪体がない」ことになるのではないかと述べている。[時評No.965]

 5億円授受に対する渡部昇一の疑問については、立花隆が『幕間ピエロ』第3回で回答しています。それ以後、この問題について両者でやり取りがありましたが、「れんだいこ」氏は、立花隆の回答にも、それに対する渡部昇一の反論にも、さらにその反論に対する立花隆の再反論にも、一切触れることなく、渡部昇一が一番最初に出した疑問をそのままの形でなぞっているだけです。

 このように、渡部昇一の主張に対し、立花隆が批判し、場合によっては渡部昇一が再反論しています。
 こういう論争を取り上げる場合、通常は、当初の主張だけでなく、批判―再反論まで含めたやり取りを踏まえて意見を述べるものだと思いますが、「れんだいこ」氏は論争の経緯に触れることなく、渡部昇一の当初の主張をなぞっているだけです。
 こうしたことから、渡部昇一が引用している範囲で立花隆の主張を目にすることはあっても、立花隆の主張の原文には目を通していないと思われます。

 そのため、次のような奇妙な発言が出てきます。

 ネット検索では「立花是、渡部非」見解のものが圧倒的に多い。れんだいこは、どう読めばそういう結論になるのかが不思議でさえある。渡部氏のどこが間違いなのか、れんだいこにはさっぱり分からない。恐らく立花派と渡部派には頭脳の配線コードで交わらない何か先天的なものがあるのかも知れない。[時評No.963]

 立花隆の主張は、その口の悪さを除けば、決してわかりにくいものだとは思いませんが、それが「さっぱり分からない」というのは、原文にあたってないので立花隆の主張を正確に把握できていないからだろうと思います。

 ただ、次のような記述を読むと、立花隆の原文を読む気はあるが、どうすれば原本を見られるのかがわからないだけなのかという気もします。

(『諸君!』1984.7月号に「英語教師の見た『小佐野裁判』」とともに)「立花の『立花隆の大反論』が併載されているが、その内容が分からない。強権的な著作権論がなければ、どこかでサイトアップされているのを見つけられると思うが出てこない。残念なことである。[時評No.964]

 それでも、『諸君!』1984年7月号に載った立花隆の『大反論!』は、文藝春秋から刊行された立花隆の『巨悪VS言論』という単行本に収められ、その後、文庫になりました。
 また、ここまで私が何度か引用した朝日ジャーナルの連載『幕間ピエロ』は、『論駁』Ⅰ~Ⅲという3冊に分けて朝日新聞社から刊行され、こちらも、その後、文庫になりました。
 文庫本になってからも日数が経っているので、書店で購入するのは難しいかもしれませんが、図書館によっては置いてあるので、読みたいのなら、一度図書館で検索してみては如何でしょうか。

 「れんだいこ」氏の主張についてはまだ続きますが、結構長くなってしまったので、今日はここまでにしておきます。


※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。

 

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