別館第一倉庫

本館からロッキード裁判に関するものを移設しました。

続:ロッキード裁判を振り返る(その33)『続:「れんだいこ」氏の考えについて』

 「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
 今回は、「れんだいこ」氏の主張についての続きです。

 「れんだいこ」氏のHPを読んでいると、ちょっと見ただけでは文章の意味を理解しかねるものがありました。

 (朝日ジャーナルの匿名コラムから渡部の『異議あり』まであたりの)渡部派の立論、立花派の立論を比較対照して論じてみればより分かるだろうが、これが為されているように思えない。れんだいこも時間がないのでできない。推定するのに、渡部派の方が筋が通っており、立花派の方は悪しき弁論技術を磨いただけの修辞言論にまみれているのではなかろうか。[時評No.965]

 「師匠」渡部昇一譲りの意味不明さというべきか、この中の「為されている」が何のことかすぐにはわかりません。
 ちなみに、この文章の前には、小室直樹立花隆の意見を「リーガル・マインドを書いた斉東野人の言だ」と言ったとか、角栄批判の大合唱のさ中に『諸君!』が唯一掉さしていたが、当時の編集長はその後左遷でもされたのではないか気にかかるということが書いてあるだけで、上の文章に直接繋がる内容ではありません。

 どうやら、前文の「比較対照して論じる」ことが「為されているように思えない」といっているとしか受け取れないんですが、そうなると、それを「れんだいこ」氏も時間がないのでできていない、それでいて「推定」すると、渡部派の方が筋が通っていると言っていることになります。
 もっと簡単にいうと、「れんだいこ」氏は、時間がないので渡部・立花両氏の意見を比較対照して論じることはできないが、推定で渡部派の方が立花派より筋が通っていると考えているということです。
 精緻な検討もせずに、根拠のない推定だけで一方の主張に理があると判断するとは、デタラメ過ぎて呆れてしまいます。

 渡部昇一ファンの「れんだいこ」氏としては、立花隆の渡部攻撃に我慢が出来なかったのでしょう。こんなことを書いています。

 立花の渡部批判論文の見出しはいずれも煽情的嘲笑的である。その言を鵜呑みすれば、渡部氏の方が詐欺師に見えよう。しかし、両者の言論内容を精査すれば、一貫して誠実なのかは渡部氏の方であり、立花の如きは検察正義プロパガンダの請負人でしかなく、中身で反論できないものだから修辞レトリックで貶めているに過ぎないことが判明する。しかし世の中は妙なもので、この修辞レトリックでヤラレてその気になる手合いが多い。何度も言うが、ネット言論上の「立花是、渡部非」立論者はこの類である。[時評No.966]

 立花隆渡部昇一批判の言葉が嘲笑的だというのはその通りだと思います。
 しかし、このブログを書くのに、渡部・立花論争関連の本を随分久しぶりに読み返しましたが、若い時に読んだときは、渡部昇一の主張に呆れるだけだったのに、私が年を取って当時の渡部昇一の年齢に近づいてきたせいか、今回は読んでいて、呆れるのを通り越して腹が立ってきました。
 「単純繰り返しの法則」が何度も出てくるのを見ると、立花隆がバカ呼ばわりしたくなるのもわかる気がします。

 また、「れんだいこ」氏が、社会主義を肯定する左派の立場を絶対視していることを示す箇所が幾つかあります。

・渡部氏の角栄を見る目の眼差しは温かい。この観点に真っ向から対立しているのが立花―日共理論である。[時評No.966]

・(渡部昇一は)当人は体制側の保守的言論の士として自ら位置付けているが、れんだいこの見るところ、その重心は定まっていない。つまり、本人の保守的言論士の思いとは別に案外そうではなく本来の左派精神に繋がる面を持っているように思われる。[時評No.967]

・多くの左派もんが角栄批判に興じてきたが、その角栄が戦後プレ社会主義体制の最も有能な牽引者であったと仮定すれば、その角栄を最も悪しざまに批判し続けた自称左派もんこと最も反社会主義的な言論士である、戦後プレ社会主義体制の壊し屋と云うことになる。[時評No.967]

・(ロッキード事件は)表見保守にして真実は左派であった田中角栄政治をどう評価するかが問われていた。[時評No.967]

・表見左派にして真実は国際金融資本の御用聞きであた日本左派運動をも総動員して、つまり右から左まで駆り立て角栄訴追の大包囲網を敷き、これにマスコミの言論大砲を加えることによって事件化することができた。[時評No.967]

ロッキード事件は、このドラマの登場人物の表見ではなしの真実の右派左派を見分けるリトマス試験紙足り得ている。角栄擁護に回った者こそ戦後日本のプレ社会主義を守る者たちであり、そういう意味で当人の意識は別として本能的に左派であり、角栄批判に回った者こそ、当人の意識は別として本能的に右派である。否正しくは右派というより国際金融資本帝国主義の走狗と云うべきだろう。[時評No.967]

 これらを見ると、「れんだいこ」氏は、左派にも自分たちのような真実の左派(以下「真正左派」)以外に、うわべだけの左派があり、自分が賛意を示すような者は自分と同じ真正左派側の人間であり、反対に、自分と意見を異にする相手は、右派がうわべだけの左派だという、非常に幼稚な考え方に囚われているのがわかります。

 例えば、「れんだいこ」氏は、立花隆を、自身がうわべだけの左派だと考えているらしい日本共産党と仲間扱いしていますが(立花―日共理論)、立花隆は著書『日本共産党の研究』によって、共産党から激しく批判されたことを知らないのでしょう。

 また、渡部昇一を「本人の保守的言論士の思いとは別に案外そうではなく本来の左派精神に繋がる面を持っているように思われる」としていますが、これなど渡部本人が聞いたら苦笑するか、ひょっとしたら「左がかっているとは何事か!」と怒り出すかもしれません。右派や左派という枠組みを使ってしか人を評価できない「れんだいこ」氏の幼稚さがここに表れています。

 「続:ロッキード裁判を振り返る(その30)」で取り上げたスガ秀実同様、この論争を短絡的思考の枠内でしか捉えられなかった「れんだいこ」氏は、歪な見方から逃れられなかったのでしょう。
 加えて、「れんだいこ」氏の場合、立花隆の主張をほとんど全部渡部昇一経由でしか見ていないようなので、氏の考えには「渡部昇一」というフィルターが色濃くかかっています。
 単純な右派左派二元論と「渡部昇一」というフィルター越しの理解。その結果、偏見だらけの意見になってしまったのは当然かもしれません。

 
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。

 

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