ブログ 『目 次』
「ロッキード裁判を振り返る」編が3回、「続:ロッキード裁判を振り返る」編が34回、計37回の連載になってしまったので、目次を作りました。
下の各項目の中で見たいものをクリックすれば、そこに移動します。興味のありそうなものを選んで御覧ください。
「ロッキード裁判を振り返る」編
『ロッキード裁判を振り返る(上)』
「続:ロッキード裁判を振り返る」編
(その6)『論点4:嘱託尋問の法的根拠について』と『論点5:免責特権付き証言の証拠採用について』
(その7)『論点6:藤林・岡原両元最高裁長官の三審制軽視発言について』
(その8)『論点7:クラッターが小佐野賢治に会って20万ドルを授受したmiddayという時間帯について』
(その9)『論点8:外為法での逮捕は別件逮捕ではないかについて』
※ 当初は「続:ロッキード裁判を振り返る」編だけの目次でしたが、検索しやすいよう「ロッキード裁判を振り返る」編も加えた目次に作り直しました。(2020.5.29)
続:ロッキード裁判を振り返る(その34)『最後に』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
最後に、私の感想らしきものを書いて終わりにしたいと思います。
『諸君!』の1984年9月号に田中裁判論争に関する識者アンケートの結果が載っていました。アンケートというより感想を述べてもらったというほうが正確かもしれません。
アンケート実施時点で既に発表されていたのが、渡部昇一サイドでは、当人の『暗黒裁判論』『七ヵ条』『違憲合法だ』『英語教師の見た』、それから、石島弁護士の『司法の自殺論』、井上教授(当時)の『主権の放棄論』、匿名法律家による座談会『検察の論理を排す』などです。
一方の立花隆サイドでは、当人の『俗論を排す』と『大反論』が主なものです。
このアンケートでは、渡部・立花論争にも登場した林修三や小室直樹など14人が意見を述べていますが、そのほとんどが田中角栄冤罪論に賛意を示す立場でした。
アンケート対象が、渡部昇一同様、版元は違うものの『諸君!』と親和性の高い産経文化人ばかりでしたが、これは「案の定」と言ったほうがいいのか、おそらく渡部昇一の書いたものしか読んでいないだろうと思われる意見が数多くありました。
また、共産党と関係の深かった石島弁護士が党の意向に従わずに田中角栄弁護の陣を張ったこと高く評価する意見も見受けられました。さすが産経文化人、というところでしょうか。
いずれにせよ、どれも裁判本体を追ったうえでの意見とはいえないものばかり。
その程度の知識で何かもっともらしいことを語ろうとする態度に薄っぺらさを感じましたが、彼らが寄って立つ渡部昇一自体、法曹専門家の意見を右から左へ紹介しているだけのようなものですから、その亜流が薄っぺらくなるのも仕方ないのかもしれません。そして、それは「れんだいこ」氏にもいえることです。
「ロッキード裁判を振り返る」で取り上げた岸田コラムについては3回で終わったので、「れんだいこ」氏のHPを取り上げたこの「続:ロッキード裁判を振り返る」も、せいぜい5~6回で終わると思っていたんですが、始めてみると、かなり根元から掘り返して話を持って来ないと理解されそうもないと思い、あれこれやっているうちに34回になってしまいました。
これで、渡部・立花論争については、ある程度秩序立てて説明ができたと思っていますが、ここまで読んで、まだ渡部昇一が論争に勝ったという人がいたら、それはもう、私の手に負えるところではありません。
ロッキード裁判については、これで終わります。
また別のテーマが見つかれば、この「倉庫」に格納しにやって来るかもしれませんが、それはまだ、先の話として、今回のところはここで区切りをつけることにします。
ひとつのテーマについて、1ヵ月以上もお付き合いをいただき、ありがとうございました。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。
続:ロッキード裁判を振り返る(その33)『続:「れんだいこ」氏の考えについて』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、「れんだいこ」氏の主張についての続きです。
「れんだいこ」氏のHPを読んでいると、ちょっと見ただけでは文章の意味を理解しかねるものがありました。
(朝日ジャーナルの匿名コラムから渡部の『異議あり』まであたりの)渡部派の立論、立花派の立論を比較対照して論じてみればより分かるだろうが、これが為されているように思えない。れんだいこも時間がないのでできない。推定するのに、渡部派の方が筋が通っており、立花派の方は悪しき弁論技術を磨いただけの修辞言論にまみれているのではなかろうか。[時評No.965]
「師匠」渡部昇一譲りの意味不明さというべきか、この中の「為されている」が何のことかすぐにはわかりません。
ちなみに、この文章の前には、小室直樹が立花隆の意見を「リーガル・マインドを書いた斉東野人の言だ」と言ったとか、角栄批判の大合唱のさ中に『諸君!』が唯一掉さしていたが、当時の編集長はその後左遷でもされたのではないか気にかかるということが書いてあるだけで、上の文章に直接繋がる内容ではありません。
どうやら、前文の「比較対照して論じる」ことが「為されているように思えない」といっているとしか受け取れないんですが、そうなると、それを「れんだいこ」氏も時間がないのでできていない、それでいて「推定」すると、渡部派の方が筋が通っていると言っていることになります。
もっと簡単にいうと、「れんだいこ」氏は、時間がないので渡部・立花両氏の意見を比較対照して論じることはできないが、推定で渡部派の方が立花派より筋が通っていると考えているということです。
精緻な検討もせずに、根拠のない推定だけで一方の主張に理があると判断するとは、デタラメ過ぎて呆れてしまいます。
渡部昇一ファンの「れんだいこ」氏としては、立花隆の渡部攻撃に我慢が出来なかったのでしょう。こんなことを書いています。
立花の渡部批判論文の見出しはいずれも煽情的嘲笑的である。その言を鵜呑みすれば、渡部氏の方が詐欺師に見えよう。しかし、両者の言論内容を精査すれば、一貫して誠実なのかは渡部氏の方であり、立花の如きは検察正義プロパガンダの請負人でしかなく、中身で反論できないものだから修辞レトリックで貶めているに過ぎないことが判明する。しかし世の中は妙なもので、この修辞レトリックでヤラレてその気になる手合いが多い。何度も言うが、ネット言論上の「立花是、渡部非」立論者はこの類である。[時評No.966]
立花隆の渡部昇一批判の言葉が嘲笑的だというのはその通りだと思います。
しかし、このブログを書くのに、渡部・立花論争関連の本を随分久しぶりに読み返しましたが、若い時に読んだときは、渡部昇一の主張に呆れるだけだったのに、私が年を取って当時の渡部昇一の年齢に近づいてきたせいか、今回は読んでいて、呆れるのを通り越して腹が立ってきました。
「単純繰り返しの法則」が何度も出てくるのを見ると、立花隆がバカ呼ばわりしたくなるのもわかる気がします。
また、「れんだいこ」氏が、社会主義を肯定する左派の立場を絶対視していることを示す箇所が幾つかあります。
・渡部氏の角栄を見る目の眼差しは温かい。この観点に真っ向から対立しているのが立花―日共理論である。[時評No.966]
・(渡部昇一は)当人は体制側の保守的言論の士として自ら位置付けているが、れんだいこの見るところ、その重心は定まっていない。つまり、本人の保守的言論士の思いとは別に案外そうではなく本来の左派精神に繋がる面を持っているように思われる。[時評No.967]
・多くの左派もんが角栄批判に興じてきたが、その角栄が戦後プレ社会主義体制の最も有能な牽引者であったと仮定すれば、その角栄を最も悪しざまに批判し続けた自称左派もんこと最も反社会主義的な言論士である、戦後プレ社会主義体制の壊し屋と云うことになる。[時評No.967]
・(ロッキード事件は)表見保守にして真実は左派であった田中角栄政治をどう評価するかが問われていた。[時評No.967]
・表見左派にして真実は国際金融資本の御用聞きであた日本左派運動をも総動員して、つまり右から左まで駆り立て角栄訴追の大包囲網を敷き、これにマスコミの言論大砲を加えることによって事件化することができた。[時評No.967]
・ロッキード事件は、このドラマの登場人物の表見ではなしの真実の右派左派を見分けるリトマス試験紙足り得ている。角栄擁護に回った者こそ戦後日本のプレ社会主義を守る者たちであり、そういう意味で当人の意識は別として本能的に左派であり、角栄批判に回った者こそ、当人の意識は別として本能的に右派である。否正しくは右派というより国際金融資本帝国主義の走狗と云うべきだろう。[時評No.967]
これらを見ると、「れんだいこ」氏は、左派にも自分たちのような真実の左派(以下「真正左派」)以外に、うわべだけの左派があり、自分が賛意を示すような者は自分と同じ真正左派側の人間であり、反対に、自分と意見を異にする相手は、右派がうわべだけの左派だという、非常に幼稚な考え方に囚われているのがわかります。
例えば、「れんだいこ」氏は、立花隆を、自身がうわべだけの左派だと考えているらしい日本共産党と仲間扱いしていますが(立花―日共理論)、立花隆は著書『日本共産党の研究』によって、共産党から激しく批判されたことを知らないのでしょう。
また、渡部昇一を「本人の保守的言論士の思いとは別に案外そうではなく本来の左派精神に繋がる面を持っているように思われる」としていますが、これなど渡部本人が聞いたら苦笑するか、ひょっとしたら「左がかっているとは何事か!」と怒り出すかもしれません。右派や左派という枠組みを使ってしか人を評価できない「れんだいこ」氏の幼稚さがここに表れています。
「続:ロッキード裁判を振り返る(その30)」で取り上げたスガ秀実同様、この論争を短絡的思考の枠内でしか捉えられなかった「れんだいこ」氏は、歪な見方から逃れられなかったのでしょう。
加えて、「れんだいこ」氏の場合、立花隆の主張をほとんど全部渡部昇一経由でしか見ていないようなので、氏の考えには「渡部昇一」というフィルターが色濃くかかっています。
単純な右派左派二元論と「渡部昇一」というフィルター越しの理解。その結果、偏見だらけの意見になってしまったのは当然かもしれません。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。
続:ロッキード裁判を振り返る(その32)『「れんだいこ」氏の考えについて』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、この連載のきっかけとなった「れんだいこ」氏の主張について取り上げます。
<諸氏百家の角栄評考その7、反立花論客(渡部昇一、石島泰、井上正冶)考>
私が最初に、「れんだいこ」氏のこのサイトを見たときの印象は、「続:ロッキード裁判を振り返る(その1)『まだこんなのがありました』」に書いたように、「これは、ちょっと…」というものでした。書いてある中身が凄すぎるとか、その前に取り上げていた「岸田コラム」が随分まともに思えるとも書きました。
そうした「れんだいこ」氏の主張の奇妙に思える点を取り上げていきます。
なお、上の「れんだいこ」氏のHPは、御本人が続けている「カンテラ時評」(以下「時評」)のうち、ロッキード裁判について取り上げたNo.927、No.961、No.962、No.963、No.964、No.965、No.966、No.967の8つをひとつにまとめたものなので、これ以降、同HPの「れんだいこ」氏の発言が載っている場所は、この8つの番号を使って示したいと思います。
まず、「れんだいこ」氏のHPを読んで感じるのは、立花隆の文章を読んでいないのではないかという疑問です。
渡部・立花論争における両者の主張は、そのほとんどが1980年代半ばに発行された雑誌等で発表されたものです。
したがって、2011年にこれらの時評を書いておられる「れんだいこ」氏は、当然、両者の主張に目を通した上で、御自分の主張を展開しているはずですが、どうも、立花隆の書いた物は読まずに、渡部昇一の主張だけを見て書いているとしか思えません。
以下、その例として、「れんだいこ」氏の発言を幾つか取り上げ、コメントしていきます。
1983(昭和58)年、10.12、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。元首相を裁く判決文にしても随分失礼な暴挙と思われるが、特段に問題にされていない。[時評No.962]
第一審判決文の主文要旨の問題については、立花隆が朝日ジャーナルの連載『幕間ピエロ』第5回他で取り上げ批判していますが、その批判内容には一切触れられていません。
渡部氏は、田中被告側が1982.2.10日付けで反対尋問請求を正式に東京地裁に提出していたこと、それが同年5.27付で請求却下されているとして、立花式の「田中被告側が反対尋問により薮蛇になることを恐れてビビッた」なる論がデマであると批判している。[時評No.963]
田中側の反対尋問請求が却下された点については、立花隆が『幕間ピエロ』第55回以降で、田中側の裁判引きのばし工作と合わせて詳しく説明しているが、それらへの反論はなく、渡部昇一の主張をなぞっているだけです。
「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」以来、渡部氏の法律的知識が格段に進んだのであろう、「証拠能力(許容性)」と「証拠の証明力(信用性)」の違いに触れた後、ロッキード事件における免責証言の証拠採用につき次のように批判している。(以下略)[時評No.965]
渡部昇一が『異議あり』で「証拠能力と証拠の証明力の区別を『諸君!』1984年8月号で始めて知った」と述べことに対し、立花隆は、『幕間ピエロ』第43回で、それまで証拠能力と証明力の区別を知らずに論争に参加していた渡部昇一を批判していますが、ここでも「れんだいこ」氏は、その立花隆の批判に一切触れることなく「渡部氏の法律的知識が格段に進んだ」と前向きに捉えています。
渡部氏は、検察論告の5億円ストーリーにも疑問を投げかけている。5億円の札束をダンボールに詰めた人も見た人も一人として証言者がいないことに対して、「罪体がない」ことになるのではないかと述べている。[時評No.965]
5億円授受に対する渡部昇一の疑問については、立花隆が『幕間ピエロ』第3回で回答しています。それ以後、この問題について両者でやり取りがありましたが、「れんだいこ」氏は、立花隆の回答にも、それに対する渡部昇一の反論にも、さらにその反論に対する立花隆の再反論にも、一切触れることなく、渡部昇一が一番最初に出した疑問をそのままの形でなぞっているだけです。
このように、渡部昇一の主張に対し、立花隆が批判し、場合によっては渡部昇一が再反論しています。
こういう論争を取り上げる場合、通常は、当初の主張だけでなく、批判―再反論まで含めたやり取りを踏まえて意見を述べるものだと思いますが、「れんだいこ」氏は論争の経緯に触れることなく、渡部昇一の当初の主張をなぞっているだけです。
こうしたことから、渡部昇一が引用している範囲で立花隆の主張を目にすることはあっても、立花隆の主張の原文には目を通していないと思われます。
そのため、次のような奇妙な発言が出てきます。
ネット検索では「立花是、渡部非」見解のものが圧倒的に多い。れんだいこは、どう読めばそういう結論になるのかが不思議でさえある。渡部氏のどこが間違いなのか、れんだいこにはさっぱり分からない。恐らく立花派と渡部派には頭脳の配線コードで交わらない何か先天的なものがあるのかも知れない。[時評No.963]
立花隆の主張は、その口の悪さを除けば、決してわかりにくいものだとは思いませんが、それが「さっぱり分からない」というのは、原文にあたってないので立花隆の主張を正確に把握できていないからだろうと思います。
ただ、次のような記述を読むと、立花隆の原文を読む気はあるが、どうすれば原本を見られるのかがわからないだけなのかという気もします。
(『諸君!』1984.7月号に「英語教師の見た『小佐野裁判』」とともに)「立花の『立花隆の大反論』が併載されているが、その内容が分からない。強権的な著作権論がなければ、どこかでサイトアップされているのを見つけられると思うが出てこない。残念なことである。[時評No.964]
それでも、『諸君!』1984年7月号に載った立花隆の『大反論!』は、文藝春秋から刊行された立花隆の『巨悪VS言論』という単行本に収められ、その後、文庫になりました。
また、ここまで私が何度か引用した朝日ジャーナルの連載『幕間ピエロ』は、『論駁』Ⅰ~Ⅲという3冊に分けて朝日新聞社から刊行され、こちらも、その後、文庫になりました。
文庫本になってからも日数が経っているので、書店で購入するのは難しいかもしれませんが、図書館によっては置いてあるので、読みたいのなら、一度図書館で検索してみては如何でしょうか。
「れんだいこ」氏の主張についてはまだ続きますが、結構長くなってしまったので、今日はここまでにしておきます。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。
続:ロッキード裁判を振り返る(その31)『渡部昇一の主張の特徴について』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、渡部昇一の主張の特徴を取り上げます。
これについては、今までも折に触れ述べてきましたが、ここまで渡部・立花論争を見てきた総括として、改めて振り返りたいと思います。
この裁判批判における渡部昇一について、立花隆はこう書いています。
渡部氏が「暗黒裁判論」以下の一連の裁判批判論においてやったことは、田中有罪を示唆する一切の証拠に見向きもせず、田中無罪を示唆する証拠がちょっとでもあればそれに飛びついてならべるという作業である。それによって、田中有罪を示唆する証拠をゼロにし、田中は無罪にちがいないと考えるわけである。そしてこれをもって「無罪の推定」だと称し、田中有罪を示唆する証拠に目を向けたり、あるいはその方向で証拠を解釈するのは「有罪の推定」だとして非難するのである。全くバカバカしいかぎりである。そんなことでよいなら、どんな犯罪でも無罪にできるだろう。(『幕間ピエロ』第60回)
簡潔明瞭かつ的確に渡部昇一を捉えた認識だと思います。
また、立花隆は「もともと人権派として活動してきた人ならまだしも、渡部昇一氏や秦野氏のごとく、これまで人権派とは無縁どころか対極の位置にいた人まで、人権、人権と声高に叫び出すのだからおそれいる」と書いています。(『幕間ピエロ』第20回)
確かに、渡部昇一や秦野章に人権派というイメージは皆無でしたから、そんな彼らが田中角栄についてだけ「人権」を唱えるのは、典型的な御都合主義でしょう。
それと、私がずっと疑問だったのは、渡部昇一が嘱託尋問調書の採用を批判する時に、必ずといっていいほど「憲法37条第2項違反だ」と訴えていることです。
もともと、渡部昇一は憲法無効論者だったはずです。
「憲法改正では、憲法に正当性を与えることになるから、改正なんかすべきではない。一度無効宣言してから変えるべき」という考えの持ち主の渡部昇一が、憲法37条第2項を守れと主張するのも、ずいぶん御都合主義だと思います。
その他で、渡部昇一について印象に残っているのは次のような点です。
・立花の主張を極端な論理の飛躍を積み重ねることによって歪曲する。
・立花に対し「検察側の代弁をしているだけだ」と言いながら、自身の主張は、裁判批判派の法曹関係者の意見を引用紹介したものが多く、それ以外の本人固有の主張には、意味不明なものが多々ある。
・立花から反論があろうと、それを無視して同じことを繰り返す。
特に、最後の「同じことを繰り返す」については、前にも紹介したように、両者の一連の論争が終わってから8年ほど後に出された「『田中角栄の死』に救われた最高裁」(『諸君!』1994年2月号)や、約27年後に出された「立花隆氏よ 議論の土俵に出てこい」(『致知』2012年2月号)で、論争中に立花隆から受けた反論には一切触れず、当初と同じ主張を繰り返しているのを見た時は、不気味ささえ感じ、背筋が寒くなりました。
他にも色々ありますが、キリがないのでこれくらいにしておきます。
この連載を通して、渡部・立花論争が(噛み合っていない点もあったにせよ)どちらに優勢な形で終わったか明らかにできたと思います。
次回は、この連載のきっかけとなった「れんだいこ」氏自身の考えについて取り上げます。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。
続:ロッキード裁判を振り返る(その30)『第三者による評価について』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、渡部・立花論争に対するある評論家の評価を取り上げます。
渡部・立花論争には、石島泰、井上正治、林修三などの第三者が参加してきますが、彼らはいずれも渡部サイドに立った主張をしており、公平な第三者ではありません。
ところが、「れんだいこ」氏のHPの最後の方に、こんなことが書いてありました。
「別冊宝島47」は『保守反動思想家に学ぶ本』(85年6月25日号)というタイトルになって、そこには角栄裁判についても相当の紙面がさかれている。そこに次のような発言がある。
「簡単に言えば、すぐに明らかなように、『朝日ジャーナル』=立花隆は、基本的に『文春』=渡部昇一(石島泰・井上正治)に負けているわけですね。しかも、反動的な役割を演じている」(同書140ページ)
ここに登場された方々は、私とは違う立場の人たちである。いつもは違う立場の人たちがこういってくれることは私が提出した角栄裁判の疑問にはそれなりの価値があったのであって、決してデタラメばかりではなかったことを示してくれるものといえるのではないだろうか。この出席者の中にはプロの法律家も入っているのである。
これは、渡部昇一が書いた『幕間ピエロ番外』第1回から、「れんだいこ」氏が一部抜き出して転載したものです。
紹介されている『保守反動思想家に学ぶ本』の中の発言者について言及はありませんが、これは、評論家のスガ秀実(「スガ」は「糸+圭」)が、呉智英との対談で発言したものです。
二人とも、それまで渡部・立花論争に関わったことはないので、スガの「立花隆は基本的に渡部昇一に負けている」という見方は、中立的な立場からの評価だといえるかもしれません。(私には理解しかねる評価ですが…)
しかし、このとき、スガ秀実の言葉に対し同意も否定もしなかった対談相手の呉智英は、1999年に刊行された対談集『放談の王道』で、宮崎哲弥と次のようなやり取りをしています。
呉:(立花隆の)『ロッキード裁判批判を斬る』なんてのは、『朝日ジャーナル』に連載されたときに読んでて、それなりに啓蒙されるところがあったんだよね。さっき宮崎君が言ったように、なかなか論証が精密でね、確かロッキード裁判を批判していた渡部昇一先生が杜撰な論理展開をなさったんで、論破されてた。
宮崎:あのときは、渡部昇一先生だけじゃなくて、法律ジャーナリストや弁護士らも論破されてたんですよ。プロの法実務家と論争して勝ったんです。
そもそも、この呉と宮崎の対談において、立花隆は否定的に取り上げられているのですが、その中にある話なので、「杜撰な論理展開の渡部昇一が論破されていた」という呉の意見は、かえって信頼できる見方だと思います。
一方、スガ秀実が何故、立花隆が渡部昇一に負けていると判断したのか、ここまで両者の論争を見てきた私には不思議です。
発言の中に、「反動的な役割」という言葉があることから、田中角栄の犯罪を追及することで検察と同じサイドに立った立花隆を、「検察=反動」という短絡的思考の枠組みの中でしか捉えられなかったスガは、フィルターのかかった見方しかできなかったのかもしれません。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。
続:ロッキード裁判を振り返る(その29)『一般の人物を持ち出すことについて』
「れんだいこ」氏のHPを見たことがきっかけで始まったこのシリーズ。
今回は、私がよく理解できなかった渡部昇一(特有)の記述スタイルを取り上げます。
自説の根拠付けや補完・補足のために権威ある人の発言等を持ち出すことはよくあります。
渡部昇一も石島弁護士、井上教授、林元法制局長官などの言葉をしばしば引用していますが、そのこと自体、特に変だとは思いません。
私が理解できなかったのは、渡部昇一の場合、自説補完のために渡部しか知らない一般人物のエピソードを持ち出してくる点です。
例えば『暗黒裁判論』には渡部昇一の近親者Kと東京在住の83歳の老婦人という二人の一般の人物が出ています。
このうち、渡部の近親者Kについては、このようなことが書いています。
戦前、渡部の近親者Kが、治安維持法違反容疑のため、二年数ヵ月拘置された。これは冤罪だったが、このKは二年以上にわたる拷問まじりの尋問に「天皇の名における裁判ではこんなバカなことが許されるはずはない」という希望を捨てずに耐え抜いた。田中角栄氏も「三審制のよる最高裁ではこんな適法手続を無視したことはしないだろう」と信じて闘い抜かれるのがよい。
このKという人物は冤罪だったということですが、この文章が書かれた時点で一審で有罪判決を受けていた田中角栄を、そのKと並べて書くことで、一審判決があたかも冤罪であったかのような印象を与えようとしているように思われます。
また、東京在住の83歳の老婦人については、こう書いています。
東京在住の83歳の老婦人から、「田中氏は最高裁まで争うべきだ」という渡部の主張に感激した」という手紙を貰った。なぜこの婦人がそこまで感激したかというと、彼女自身が所信を貫くため20年間闘い続け、ついに最高裁で自分の信じるところが認められたという体験を持っているからだ。
この老婦人の所信の内容も明らかにせず、一審から最高裁に至るまでの20年間、どのような経緯を得て「信じるところが認められた」のかも示されていないこの文章も、「田中角栄も最高裁まで争うべき」という主張の前提にある「田中角栄は無罪」という考えを強く印象付けようとするために持ち出されたように思われます。
この二人の話は、いずれも元最高裁長官の「三審制軽視発言」に対する批判の中で出されていますが、印象付けのためだけのエピソードなら不要でしょう。
『七ヵ条』の中には、こういう記述もあります。
私に寄せられた多くの手紙の中には、法律を全く知らない人たちで、「おかしいと思っていた」人たちからのものが何通もある。しかも私に手紙を下さったり、直接間接に同感の意を示された方の中には、司法と裁判の最高責任者の範疇に入る人も何人かおり、中には岡崎氏と同僚だった人もいるし、名だたる法律学者も複数でいることをお伝えしておく。今その実名をあげることは迷惑がかかるといけないから明さないだけの話である。
法律の面で権威のある人が自分を支持してくれていると言いたいんでしょうが、仮にも「論争」をしている当事者が、そのような曖昧な話を自説強化のために持ち出してくる真意が私には理解できません。
渡部昇一は『異議あり』の中でも一般の人物を持ち出しています。
私(渡部)が勤務する上智大学でも、新聞の広告を見たらしい2,3人の外人同僚が「田中を弁護しはじめたそうですね」と心配そうに言ってくれたので「田中は一度も最重要証人に対して反対尋問の機会を与えられていなかった」というと、即座に「そうですか」と深くうなずいてくれた。
さらに、同書の中では、次のようなエピソードも紹介しています。
私(渡)の『暗黒裁判論』に対する反響が大きかったので、あるラジオ局がかなりの数の刑法関係の大学の先生に『暗黒裁判論』の私の考え方について質問をしたら、たいていの刑法学者が私の考え方に賛成だった。
本人が「そうだった」というのなら「そうですか」としか言い様はありませんが、どこのラジオ局の何という番組がいつどのような内容の質問をどういった大学に籍を置いている何人ぐらいの刑法学者の方々に行ったのかという具体的なことが何一つ書かれていない話を、『暗黒裁判論』という自説補完のために使おうとする考え方が、私には理解できません。(『暗黒裁判論』に賛成する刑法学者というのもどうなのかな、と思いますが…)
また、『英語力を疑う』の中で、渡部昇一は英文の最高裁宣明に対する立花隆の理解について、議論に客観性を持たせるため、新進の英語学者に立花隆の文章を分析してくれるように頼んだところ、その学者は、四百字八枚の結果報告の他に、次のような感想を別紙でくれたという。
「立花氏の論は、論理的にフォローして行こうと思ってもなかなかうまく筋が追えず、変だな、と思いましたが、結局はインチキだからまともに追えないと判明しました」
新進だか何だか知りませんが、また、別紙とは原稿用紙なのかメモ用紙なのか封筒の裏なのかわかりませんが、いくら感想とはいえ、学者という一定の知識のある人間が書いたとは思えないひどい文章です。
「結局はインチキだからまともに追えない」などという日本語表現を使うような学者には、たとえ英語学者であろうと教えてもらいたいとは思いませんね。
その程度の人物なので、渡部昇一は身元を明らかにしなかったのかもしれません。
その他、「続:ロッキード裁判を振り返る(その7)『論点6:藤林・岡原両元最高裁長官の三審制軽視発言について』」で出てきた渡部昇一の教え子の大学院生の話も同様です。
『暗黒裁判論』や『異議あり』がエッセイだというのであれば別ですが、渡部昇一の力の入り具合を見ると、いずれもエッセイに留まらない田中裁判一審判決を批判する「論文」のつもりで書いたようなので、具体性に欠ける内容のものを主張の補完材料として使ったのは適切ではなかったと思います。
※ 有名な方は基本的に敬称略になっています。